重成 美雪

  • 東海大学、北星学園大学
  • 非常勤講師
  • 重成 美雪
  • 1975年 外国語学部 英米語学科 卒業
重成 美雪

共に1つの目標に向かって突き進んだESSでの活動

学生時代は、ESSの社会学セクションに籍を置きながら漫画ばかり描いており、特に、2回生の時に副セクションリーダーを任命されてからは、その時とても生真面目だったセクションリーダーを何とかサポートしようと頑張りました。しかし、はじめての夏合宿の時には、足に怪我をしてしまい、直前で合宿に参加することができなくなってしまいました。仲間たちが皆有意義に夏のひとときを過ごしている間に、1人寂しく下宿で休むことを余儀なくされ、自分のドジさをとても悔やんだのを思い出します。北海道出身の私にとって、それは、とても暑い夏の思い出でした。

ESSでは、学祭シーズンがやはり1番熱が入る時期でしたので、ライバルクラブであるガイドクラブの活躍などがいろいろと気になり、わがESSも各セクションそれぞれ皆大変な張り切り様で、討論会やセクションの課題発表など、さまざまな資料作りの準備に明け暮れたのを懐かしく思い出します。今となっては、内容はともかく、その活動を通じて多くの友を得、楽しかったことばかりが思い出されます。その当時の友との再会には数十年経った今でも、不思議なほど時差がありません。あっという間に、あの時の、あの青春に立ち戻るのです。それは、やはり共に1つの目標に向かって突き進んだからだと思います。

私は中学から高校までの6年間、カソリックの寄宿舎学校で過ごしましたこともあり、自由な大学生活がとても楽しかったのを覚えています。また、それと同時に、自由に対する責任も持たなければならないことを学んだと思います。何より、男子学生の行動がとても興味深く、漫画のネタにと観察したものです。漫画のネタは周りにふんだんにあり、人間観察の目はとても肥えたのではないかと思います。

最後まで諦めずに頑張れば、必ず報われる

卒業を目前にしていた1975年の春には、卒業式を待たずに渡米しました。ミシガン州立大学のELCで10週間の語学研修を経て大学院生となり、教育心理学部で児童心理学、後に芸術学部でグラフィックデザインを学びました。留学時代の1番の思い出は、3年目にコンピューターグラフィックスの授業を取ったことだと思います。外大時代の私は、コンピューターのコの字も知らず、ミシガン州立大で初めてコンピュータサイエンスという学問があることを知りました。慶應義塾大学出身の男子学生が、真新しくできたばかりのコンピュータサイエンスビルディングを指差して、そこでぜひ授業を受けたいのだと私に伝えたのです。その時、私は、コンピュータサイエンスってどんな学問?と聞いたのを覚えています。同時に、その頃、自宅のガレージでコンピュータを作っているすごい大学生がいると言う噂をアメリカ人学生仲間から耳にしました。その時はその大学生が誰なのか大して気にも留めませんでしたが、今思えば、その学生は、なんと、スティーブ・ジョブズだったというから驚きです。ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが、その頃すでに先見の明を持って、コンピューターに果敢に挑戦していたのです。そして、年下の彼らに触発され、私は無謀にもコンピューターグラフィックスの授業を取ることにしたわけです。

以後、本当に文字通り毎日泣きながら、金曜日に提出しなければならない作品を毎週10回分、必死で制作し提出したのを覚えています。工学部の建物に夜な夜な通い、コンピュータールームにはTAの学部生がいて、ずいぶんプログラミングを手伝ってもらったのを思い出します。今はiPadといった便利なツールもありますが、当時は彼の力なしでは単位は取れなかったと思います。この話を始めたら止まることがないのでこの辺にしておきます。因みに成績はA+でした。

学生時代に特に学んだことといえば、何と言っても最後まで諦めないということですね。昨今のコロナ禍のなか、すべての授業がオンラインで行われることになりました。オンラインで授業を構築する事は、高齢の先生たちにはなかなか厳しいものがあります。でも、このオンライン授業にこの歳で何とか耐えられたのも、この経験があったからかと思います。最後まで諦めずに頑張れば、必ず報われるということを身をもって知っていたからです。
我が思い出のキャンパス34年ぶりのMSUにて
我が思い出のキャンパス34年ぶりのMSUにて
懐かしいホストファミリーとの再会
懐かしいホストファミリーとの再会

日本は閉じた本である。開かなくては豊かな日本を知ってもらえない。

大学院では、結果的に修士号を2つも終了する結果になりました。帰国後は横浜で結婚することになり、しばらくは3人の子供の子育てに専念することにしました。やがて、夫が北海道東海大学(当時)で教鞭を採るために札幌に引っ越すことになり、新しい地で近所の子供たちに英語を教えながら子育てに奮闘する毎日が続きました。そして、40歳にして、北海道東海大学で非常勤講師として英語を教える機会を与えられ、現在に至っています。なんと、今年でまる28年目になりました。その間にも息子の通っていた幼稚園での英語教育にも携わり、また、地元の北星学園でも教鞭を取ることとなり、26年目になります。今年1月で68歳。あと2年間、なんとか最後まで勤めようと思っています。

話は学生時代に戻りますが、在学中は、夏休みになると地元北海道にあるYMCA国際キャンプでカウンセラーとして過ごしました。そこでの若いキャンパーや米国から来ていたカウンセラーたちとの交流を通じて自分の英語力のなさに自信を喪失し、日本の英語教育のあり方に疑問を感じて留学を決意しました。キャンプでアメリカ人大学生のカウンセラーとして参加していた女性と知り合い、彼女の勧めでミシガン州立大に留学することを決めました。その結果、4年の長きになった私の留学経験を通して、世界中の人々と語り合う楽しさを知ることができました。外大在学中にESSで基調講演でお招きした国広先生の「日本は閉じた本である。開かなくては豊かな日本を知ってもらえない。ぜひ皆さんで日本という本を開いて世界中に日本を知らせて下さい。」というメッセージがその後の私の進む道に大きく影響することになりました。また、ミシガン州立大ではJapan Weekでの日本文化の紹介、 4Hクラブの地元の子供たちとの折り紙交流、アジアンセンターでのアルバイトなどを通じて、また、世界中の留学生たちとの交流で視野を広め、ますます有効な英語教育の必要性を感じたのが、現在の仕事に携わるきっかけになったのだと思います。

実体験をすることが本当に大事

まだ大学で仕事を始める前、夫が軽音楽部の顧問をしていて、学生たちがしょっちゅう家に来ていました。学生たちは音楽には大変な情熱を持っていますが、英語の勉強となるとさっぱりで、ご飯を食べさせては英語を学ぶ楽しさを語る日々でした。

そうこうするうちに私も大学で教え始めることになり、機会があれば学生たちに英語を通じて世界中の人たちとつながることが出来る楽しさを伝えてきました。教え子たちの中には、私の楽しく有意義だった留学時代の話に触発され、留学を決意して米国やオーストラリアの大学を卒業するものまでおりました。短期留学を経験した学生が帰国後、わざわざ非常勤講師室まで報告に来てくれ、さまざまな貴重な経験を本当に楽しそうに語ってくれた時は、とても教師冥利に尽きる気持ちです。留学を経験した学生たちは確実に頼もしく変化しています。実体験をするということは、本当に大事なことなのだとつくづく思います。
学生達の靴でいっぱいの我が家の玄関
学生達の靴でいっぱいの我が家の玄関

オープンマインドな将来を世界中の人たちとシェアできるように

私の仕事もあと残すところ2年です。私の留学時代はスマートフォンどころかパソコンも何もなく、分厚い辞書を片手にかちゃかちゃとタイプライターでペーパーを書くのが当たり前の、本当に体当たりの日々でした。滅多なことでは故郷の父母にも電話もできません。今の学生たちは、ほとんどがデジタルネイティブで、さまざまなデバイスや翻訳アプリもあります。無料アプリで世界中の人たちとビデオチャットも簡単にできます。いくらでも海外とつながることができます。しかし、できるなら生身の交流をぜひしてほしいと思います。今は残念なことにコロナ禍でソーシャルディスタンスを保たねばならず、とても厳しい状況です。でも、若い学生の皆さんが、自分の肌で感じ取れる本当の豊かな交流の経験を持ち、よりオープンマインドな将来を世界中の人たちとシェアできることを望み、その手助けをすることが今後の私の目標です。日本がさらに開かれた本になるよう、ぜひ、今の若い学生の皆さんにも力を尽くしてほしいと思います。
北海道東海大学(現東海大学札幌キャンパス)にて
北海道東海大学(現東海大学札幌キャンパス)にて

共有し、共に考え、成長できるのは最高に幸せなこと

人に教えるということはとても責任のある仕事です。人に教える前に自分が常に何か新しいことを学んでいることが必要です。学びはとても楽しいことです。日々新しい発見があります。その発見を若い子供たちや学生たちと共有し、共に考え、成長できるのは最高に幸せなことです。ぜひその喜びを味わっていただきたいと思います。

掲載:2021年3月
東海大学札幌キャンパスにて
東海大学札幌キャンパスにて