竹内 成和

  • H.U.グループホールディングス株式会社
  • 取締役 代表執行役社長 兼 グループCEO
  • 竹内 成和
  • 1976年 外国語学部 英米語学科 卒業
竹内 成和

好きな音楽を仕事にしたいと、CBS・ソニーに入社

私が関西外大を卒業した1976年は、オイルショックで就職が厳しい時代でした。興味のあった音楽業界を志望していましたが、不況で新卒採用をしていない企業がほとんど。そのなかで設立8年目にして業界2位と勢いのある(株)CBS・ソニー(現 (株)ソニー・ミュージックエンタテインメント)の求人募集をみつけましたが、募集人数はたった10名程度。そこに3,000人以上の学生がチャレンジしたのですから、私が合格したのは奇跡と言っても過言ではありません。筆記試験の後に4次面接まである本当に狭き門でした。興味のあった音楽はイタリアのカンツォーネ。3次面接で「好きな音楽」を聞かれ、「カンツォーネ」と答えたところ、「うちではまったく扱っていません」と返されたため、落ちたと思いました(笑)。
入社後は、営業、販売推進、営業システム開発などさまざまな業務を経験しました。今の時代ならブラック企業と言われそうですが、会社に泊まることもよくありましたね。そんな風にがむしゃらに仕事をしていたら、ソニー・ミュージック上場を担うビッグプロジェクトのメンバーに抜擢されました。今までとはまったく違う分野の仕事。東京証券取引所のヒアリングが朝9時から17時まで合計15回もありましたが、毎回、ヒアリングの4日前に質問がファックスで届き、10人くらいのプロジェクトチームで夜を徹してその回答を考えました。上場後は証券業務室のトップに任命されましたが、当時は貸借対照表も損益計算書も正確に読めないし、一から勉強でした。この時の勉強が後々、経営する側の立場に立った際に役立ちましたね。
ソニー・ミュージックの販売推進部時代
ソニー・ミュージックの販売推進部時代

経営者として、業界のリーダーとして、役割を果たす

その後、当時最年少の40歳で営業本部長、芸能プロダクションの(株)ソニー・ミュージックアーティスツの代表取締役社長を経て、46歳で(株)ソニー・ミュージックエンタテインメントの役員・CFOとなりました。CFOの立場からグループ会社であるアニメ会社の業績改善を指摘したところ、「それならやってみろ」と返され、その勢い(笑)で社長に就任。社名を自分で考えて(株)アニプレックス(アニメーション+ビジネスコンプレックスの造語)に変更しました。そう、今、「鬼滅の刃」で大当たりしている会社の生みの親となるわけです。音楽、芸能、アニメの会社の経営に加え、その後(株)ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント(映画)の代表取締役会長、(株)ソニー・放送メディアの取締役会長を歴任し、55歳でソニーを去り、エイベックス・グループ・ホールディングス(株)(現エイベックス(株))の代表取締役CFOとなりました。最初はいくら乞われても、同業他社に入ることに抵抗があったのですが、当時のソニーの大賀相談役に、「古くさいことを言わずに、お前の立場くらいになったら業界のために何ができるか考えろ」と言われ、決心がつきました。エイベックスに在籍して6年間。400億円の借金を返済し、100億円の貯金を作った時点で、もうこれでこの業界から卒業しようと思いました。映画、音楽、芸能、アニメなどのエンターテイメント業界を熟知しており、その経験の枠でしか考えられなくなることに危険を感じたからです。取締役会で辞任を表明した後に日経新聞で、「エイベックス、大黒柱去る」と報じられると、外資系など多くの企業が声をかけてくれました。この時、62歳でしたが、「まだ、自分自身の市場価値はあるな」と感じましたね。

まったく違う業界で変革にチャレンジ

そのころ、現在の会社の指名委員会の委員長から連絡をもらいました。エンタメ業界とは正反対の硬派な業界。一部上場企業にも関わらず、名前すら知らない縁遠い会社でした。「受託臨床検査と検査薬の会社」と聞いても、まったくピンときませんでした。熱意に負けて、結局、エイベックスから今の会社に一日も休まず入社することに。2016年の入社後はさまざまな困難を乗り越えながら会社の変革を進め、2020年には社名を変更、新たなビジョンも発表しました。異業種で会社の改革を行ってきたことから、経営のプロと言われることがありますが、そう言われるのは好きではないですね。経営をやる限りはプロであって当然です。表面上の経営をしても成果はあげられません。当社でもはじめは内政に努め、中を知ることから始めました。常識を積み上げても大きな変革は望めない、いい意味で非常識を持ちこまないと変われないというのが私の信条です。業界を知らないという一見不利に見えることが、実はアドバンテージなのです。入社初年度、翌年度で多額の特別損失を計上しながらも、一貫して変革を推し進めてきました。明日が退任の日であっても10年先の議論をする、つまり足元だけではなく常にその先のことを考える、それが社長の責任だと思っています。目の前の課題解決は、それぞれの階層の責任者に任せても問題ないのですが、中長期的な大方針は社長が立てなければいけない。重要視しているのは、お客様に貢献し、持続的、安定的に会社を成長させ、従業員の生活と希望をどう叶えるかということです。企業の最高意思決定者として24時間体制で臨んでいます。

関西外大での思い出はアメリカ留学

関西外大では結構、真面目に勉強をしました。当時でもネイティブの先生は何人もいたし、「英語音声学」などの理論を学べるのが面白かったです。留学の選抜試験に合格し、アメリカ・ミネソタ州のガスタバスアドルファス大学(Gustavus Adolphus College)に1カ月半の留学をしました。大学の学生寮に入り、最後の2週間はホームステイでした。1ドル300円の時代に、30数万円で留学できたのは価値がありましたね。大学が補助してくれていたのでしょう。感謝です。ホームステイ先は2,000~3,000エーカーという農場を持っていたのですが、その農場で働く人に、「生まれて初めて日本人を見た」と言われるくらいの田舎でした。自分たち以外には日本人はいませんでしたね。留学中にウォーターゲート事件でニクソン大統領が辞任しました。そんな歴史的な瞬間を、現地アメリカで生で感じることができたのはいい経験でした。ニュースの英語を聴いてすぐに理解できたことを思うと日頃の勉強と留学の成果があったのでしょうね。
留学先で仲間たちと
留学先で仲間たちと
留学先での修了式
留学先での修了式
学生の皆さんが社会に出るとき、今やりたいことを考えるのは大切ですが、それは変化していくものです。自分自身も音楽に関わりたいと思い就職しましたが、実際にはその後に身につけた財務が役立っています。その都度、課題が与えられて学ばざるを得ない、その繰り返しだと思います。40年後には想像していたことと違うことをしているのが人生だし、それが人生の面白さだと思います。やりたいことを見つけるのも重要ですが、今、目の前のことにどれだけアグレッシブに取り組めるか。自分がやりたいことと違う部署に配属されても正面から受け止めて取り組む人と横を向く人とでは3年後に大きな差がつきます。斜に構えた人の口には絶対風は入ってきません。若いときはとにかく吸収し、30-40歳でやりたいことが見えてきたときに、それが会社にあればそこでさらに頑張ればいいし、なければ外に出てもいいのです。目の前のことを一生懸命やっていれば個人の市場価値を上げ、他の業界でも活躍できます。辞めることを推奨しているのではなく、自分を一つの殻に閉じ込めずに自由に考えればいいということです。大学はお金を払って学びますが、会社はお金をもらって学ぶのだから、会社というのはありがたいところです。
ビジネス界で同窓生に出会うという大学も多いですが、東京では関西外大の同窓生に会うことは残念ながら、ほとんどありません。今後、卒業生のネットワークができ、東京でも大学の知名度が広がることを願っています。

掲載:2021年9月