林 かんな

  • 映像翻訳者/世界ワーカー
  • 林 かんな
  • 1991年 外国語学部スペイン語学科
林 かんな

人間万事塞翁が馬

チャレンジの多い人生ですが、そのきっかけは高校受験に失敗したことでした。京都の高校に通う事になった私は、新聞社に勤めていた父からもらう試写状や劇場招待券で色々な映画を観るようになります。そして、元々のマイナー志向に加え、趣味が高じて京都大学の西部講堂やライブハウスで行われる自主上映にも足を運ぶほど、どっぷりと映画の世界に魅了されていきます。子供の頃から色んな夢がありましたが、この頃には、映画監督になることが将来の夢になっていました。もし、当時、第一志望の高校に受かっていたとしたら、今とは全く別の人生を歩んでいたことでしょう。人生において、最初は悪いことに思えても、結果的には失敗して良かったと感じる、”人間万事塞翁が馬”という故事を実感できた初めての経験でした。この時から、自分が望んだ結果が出ないときには「結論はまだ出たわけではない。後で結果的に良かったと思えるかも知れない。」と思う癖がつきました。これにより、大抵のことは失敗ではなくなり、チャレンジへのハードルが下がるので、何かを思いついたらいつもこの考えで取り組むようにしています。

スペイン語との出会い

映画監督になるつもりで東京の大学へ進学する予定でしたが、大学受験にも失敗し、ご縁があって関西外国語大学へ。当時は英米語学科とスペイン語学科の2択の時代。ビクトル・エリセ監督の映画で、今までフラメンコの明るいイメージしかなかったスペインにも陰があることを知り、何となくスペインの魅力に惹かれてスペイン語学科への進学を決めました。語学の大学を選んだ一方、映画とのつながりも持ちたいと思って映研の部室をのぞいてみますが、自分の求めている世界とは違ったので入部には至りませんでした。そんな中、マイナー上映会を通じて自主上映会や自主製作を行う京都のグループ(シネマ・ルネッサンス)の存在を知り、ボランティアスタッフに応募します。自主上映会ではモギリを、自主製作ではチラシのイラスト制作を担当しました。また、企画上映の際には、舞台挨拶などで来京した俳優や監督たちとの打ち上げにも参加するようになり、有名人であっても会いたいと思えば会うことができるんだ、ということを実感しましたが、この時も、受験に失敗して関西にいてよかったな、と感じました。東京にも、もちろん色々なチャンスはあると思いますが、アクセスする先はさまざまで、コネクションがないとなかなかこのような機会には恵まれません。それに対し、関西だと情報が1カ所に集まってくるので、そこにいれば色んな人に会う機会を得ることができるんです。そして、この頃、後に推しの監督となるアレハンドロ・ホドロフスキー監督・主演の「EL TOPO」に出会うことになります。

大学時代は翻訳のゼミを選択しました。課題として、エリセ監督のパートナーであった作家アデライダ・ガルシア・モラレスの 自伝的小説「El sur」の翻訳に挑戦。当時は翻訳を仕事にするつもりは全くありませんでしたが、今となっては深い縁を感じますね。

マラガ、バルセロナでの留学経験

大学生活を過ごすうちに、自分自身は0から1を作るタイプではないということに気付かされ、映画監督ではなく、映画に携わることができる配給会社を志望するようになりました。当時はバブル最盛期 。本来ならば就職活動は売り手市場で内定が出やすかったはずですが、活動を始めたのが4年生の6月と遅かったせいか、気づけばすでに採用は終わっている状況でした。そこで、個人留学にあっさり方向転換をして、内定のないまま大学を卒業。3年生の春休みに訪れたヨーロッパの中でも、特に気に入ったバルセロナへ行くために、1年間ホテルの配膳バイトに励んで留学資金を溜めました。1992年、バルセロナへの留学前には、比較的学費が安かったマラガで3カ月間ホームステイをしながらインテンシブコースを受講。マラガにはアートシアター系の映画館がなく、ハリウッド映画が全て吹き替えられていたことを残念に感じていましたが、その後、ようやくバルセロナへ。時間はたっぷりあったので、アートシアターと名画座通いが復活。10カ月を過ぎた頃にやっと留学生活の手ごたえを感じ始め、もう1年間留学を延長することにしました。

この頃、学校の掲示板で「日本語の翻訳者募集」の張り紙を見つけました。張り紙は連絡先が切り取れるように、下のほうに電話番号が書かれて切り込みが入っているタイプ。この仕事を誰にも取られたくなかった私は、張り紙ごとはがして持ち帰り応募しました。無事に採用され、漫画の下訳で翻訳者としてデビュー。もし応募者多数で試験的なものがあったら落ちていた可能性も。欲しいものがあるなら、時として手段を選ばないことも必要であると学びました。

夢を叶えるために、コネクションを求めて奔走した日々

1994年に帰国。 直後、建都1200年のイベントの一環で、「東京国際映画祭」が京都で開催されました。私は、「ジョニー100ペソ(公開時のタイトルは「ひとりぼっちのジョニー」)」のグスタボ・グラフ・マリーノ監督のアテンドを担当。その後、ひょんなことから父親の知り合いが通訳・翻訳者を斡旋する会社をしていることを知り、そこでアルバイトを始めました。仕事のほとんどが警察や検察での通訳の派遣で、被疑者がスペイン語圏出身者のときは自分で行きましたね(この頃は無謀にも、自分のスピーキングの実力が分かっていなかったのです)。

通訳・翻訳の経験を積む中で、少しずつ字幕翻訳の仕事がしたいと思うようになり、通信教育で翻訳を学び、そして映画の翻訳をするために1997年に上京。派遣で働きながら翻訳の学校に通いました。コネクション作りも兼ねていたのですが、先生と相性が合わず、このルートで仕事を得るのは難しいと悟り、翻訳者ネットワークの道を諦めて独自の路線を探ることにしました。何の目処や予定も立っていなかったものの 、30歳のうちにデビューすることを本気で決心。ちょうど、マラガで同じ語学学校に通っていた友人からの依頼によって30歳のうちに映像翻訳者としてデビューすることになります。ちなみに、2本目の仕事は、監督のアテンドをした配給会社からの依頼でした。恐らく多くの人が、映像翻訳者としてのデビューに至るまでに何があったのかと不思議に思うことでしょう。でも、自分の実感としては決心をしただけなんです。運がよかったと言われればそれまでですが、留学先でマラガに行ったことや、監督のアテンドしたことなど、過去の自分が行動した結果が今につながっていると感じます。腹を括って本気で取り組んでいると、時々こういう幸運が訪れるのですが、再現性が低く説得力に欠けることが残念ですね。

もう一つの肩書、世界ワーカー

翻訳者としての私は、インディーズ系というか、制作会社でのトライアルに受かってドラマやバラエティなど、小さな仕事からだんだんやっていく王道の翻訳家としての道を歩んできませんでしたので、定期的な仕事が常にある訳ではなく、時には全然仕事がない時期もありました。普通の人は、仕事がなくなるとやばいと感じて必死になると思うんですが、私は、これは長期旅行に行けるチャンスじゃないのか、と思っちゃったんですね。もちろん、潤沢な旅費がある訳でもありませんでしたが、街中で歌ってお金をもらうバスキングみたいなことをすれば旅を続けることはできるんじゃないかと思って…。別にギターが弾けるわけでもありませんでしたが、現地の人に巻き寿司の作り方を教えるワークショップを開いたらお金になるんじゃないかと思って、100円均一で買い求めた巻き寿司作成キットを手にアルゼンチンを目指しました。結果的にお金を稼ぐことはできませんでしたが、宿泊先の現地の人たちと一緒に巻き寿司を作ったら、すごく仲良くなれて一緒に飲みに行ったりするまでになりました。この時、1年のうち、余裕のある1,2ヶ月を海外に行って働くことができたらいいなって思いました。自分がやりたいものをとりあえず名乗ってみるというのが夢への一歩と考えている私は、これを世界ワーカーと名付けました。

推しの監督との仕事

この頃、すごく大好きだったアレハンドロ・ホドロフスキー監督作品を日本の配給会社が買ったという話を聞きました。「あなたの原作本を翻訳したい」とパリまで出向いてご本人に直談判したことがある監督の作品でしたので、パリまで監督に会いに行ったこともあり、それ以外の作品も読んでいる日本一ホドロフスキーに詳しい映像翻訳者であると配給会社に猛アピールし、「リアリティのダンス」の字幕翻訳をさせていただくことになりました。その後、この配給会社も出資するということで情報が入ったのですが、ホドロフスキー監督が新作「エンドレス・ポエトリー」をチリで撮影することが決まり、文化庁の助成金支援を受けるための通訳を探していました。でも、本職の通訳の方を4カ月間拘束するのはすごく費用がかかることが分かり、向こうでは日本語が話せる現地の学生を探しているようでしたが、それもうまくいっていないようでした。私自身、基本的に通訳はできませんが、監督のことはもともと良く知っていますし、かなり癖のある作風でしたので、スペイン語ができても何も知らない学生が担当するよりも、自分が行く方が良いのかな、と思い切って受けました。結果、同行した日本人美術監督の発する日本語が意味不明でうまく伝えきれず、わずか1カ月で首になってしまいました。

このチリでの滞在期間も、最初、お客さんとして扱われている期間は分かりませんでしたが、日が経つにつれて少しずつその国が見えてくるみたいな感覚を味わうことができ、これが自分の求めていた世界ワーカーだと感じ、やはりこの路線で行ってみたいと思いました。
映像翻訳作品:『リアリティのダンス』
映像翻訳作品:『エンドレス・ポエトリー』
映像翻訳作品:『マジカル・ガール』

デンマークに出稼ぎ
蟹工船の真実

以前、デンマークで2,3ヶ月職人さんのまかないを作る仕事ができる人を募集している、と友人から聞いて興味を持っていたのですが、その時はタイミングがあわず行けませんでした。既に何年も経っていたのでダメ元で改めて募集状況を聞いてもらったところ、まかない担当は既に決まっているが結構大変らしいので、まかないアシスタント兼、筋子を詰める職人という立場なら、ということでデンマーク行きが決まりました。8時間労働で日給1万円×拘束日数、但し、土日は休みという時給換算したらそんなに高いわけでもありませんが、ブラックというわけでもない。なので、勝手にホワイト蟹工船と呼んでいました。その年は、たまたま海水温が下がらず、卵の生育状況も良くなかったので、初めはほとんど仕事がなく、日本から持って行った翻訳の仕事をしながら飲み放題のお酒を飲む、みたいな状況でした。結局、デンマーク現地の人たちとコミュニケーションを取る機会はあまりありませんでしたが、北海道や秋田から出向で来ていた人たちは、普段自分が接したことのないタイプばかりだったので、異文化交流という意味ではすごく面白い経験となりました。

当時のデンマークでの生活体験を書き記していたFacebook記事に多くの反響をいただき、後に「工船日誌」として編集させていただくことになりました。企業の悪を暴くための潜入ルポのような類のものではなく、世界ワーカーの形として、市井の人々と同じ労働を体験した内容を書いた、見聞録的なのんきさを旨とした内容となっています。
「工船日誌」

世界ワーカーとしての次なるチャレンジ
アートユニット「Km4」とは

世界ワーカーとしての活動を拡げるために、友人を巻き込んだアートユニット「Km4」を結成しました。アーティスト&イトオテルミー療術師の南夏世さん、陶芸&ワイヤーワークのm.yam clayさん、ストリングラフィ演奏家の鈴木モモさんと私の四人で構成されたユニットです。人生の大部分はなるべく匿名でいたいと思い、今までインターネットへの露出は可能な限り控えていきました。でも、世界に向けて情報を発信していくにはインフルエンスがないとどうしようもないということに気付かされ、今は、講演やこのような機会にはどんどん表に出ていくようにしています。今後は、映像翻訳者としての傍ら、世界ワーカーとして世界へ飛び出していきたいと考えています。

アートユニット「Km4」(@km4_4km)

やりたいことが決まっている皆さんへ

夢の一つだった「推しとの仕事」を実現させた私から、夢をかなえるためのヒントを皆さんへお送りします。

①自分の性格を見極める
世の中に数多ある成功するための方法も、自分の性格に合わないものは続けられません。

②現在地を知る
 客観的に自分を見ることで、足りないところや伸ばすべきところが分かります。

③やりたいことは口に出す
一見、関係なさそうな人にも話すことで、巡り巡って縁がやってくることがあります。

④いったん名乗ってみる
ある種の言霊信仰です。口に出すことで自己暗示をかけるのです。

⑤とりあえず行動する
一歩踏み出せば、踏み出す前には見えなかった進むべき二歩目が見えてきます。

⑥早い段階で失敗しておく
失敗は意外とマイナスなことばかりではないと分かります。失敗しても最終的に成功にすればいいだけなのです。

⑦人との縁は大切に
ほとんどの仕事は人が運んできてくれます。

⑧機嫌よく、ほがらかに
自分がどんな人と仕事をしたいかと考えたら、おのずと答えは出るでしょう。

⑨目先の利益にとらわれない
学生時代たくさんボランティアに参加したことが、大人になって実を結びました。

⑩自分の頭で考える
能力、スキル、人脈、性格はそれぞれ違います。それらを自分に合った方法にカスタマイズするためには、自分自身で考えることが大切です。

私は子供の頃から何でもやりたいタイプでしたが、もちろん、やりたいことがない人が無理に夢を見つける必要はありません。でも、やりたいことが見つかったなら、私のこのメッセージが少しでもヒントになればうれしいです。